どうも石崎です。
6分漕いで、気持ちが乗ってきました。
良い音楽が流れています。
ピアノポップスで乗ってくる自分も如何なものかと。いやそれにしても心地良い。Charlotte MartinのTrembleが鼓膜を震わしています。(そういえば中学教諭が学生の鼓膜を破ったとか呆れたニュースがありましたね)
1日に書きたい量の文章が身体の何処かにあります。それ以上書こうとすると、空っぽな身体を掘ることになります。まるでコンクリートにスコップを立てるように、どちらかが欠けてしまう辛さを伴う作業です。これをやり過ぎると、文字どおり身体はヤツれます。僕、これまでに2、3回やったことあるんですけど、体重が10キロ単位で減ります。
1年に書きたい量の文章も身体の中にはあります。はい丁度これが1年分とドサと書類が目の前に積まれる。そこには僕が吐き出しておきたかった機微な情報が事細かに記載されています。まさにあなたが覗き見しているこの文章もその書類の中にあったものです。来年に持ち越すと確実にお蔵入り文章です。今年しか書けない文章がここにある。
文章を書くという行為は(偉そうに言うなコラ)、自分を掘る行為です。掘った時に出土する何かが文章になるわけです。それは他人への中傷であったり嫉妬であったり、或いは自らの肯定であったり賞賛であったり。うわ、この文章を後で読み返すと確実に赤面するぞ、僕は。
ただし掘り方にパターンがあって、一つは目に見える表土した部分から二、三メートルほど掘るパターンと、もう一つは光が決して届かない二、三メートルより深い部分を掘るパターンです。たいていの人は前者のパターンに始終している。やっぱりなんか偉そうだな、こら。いいのかこのまま続けて。いいよ続けて。だって僕もたいていの人に含まれるんだから。
上っ面だけを掘る人の文章はどこか偉そうです。まるでこの文章のように。相手に伝えるという口実を借りて、実は自分を教育しているような文章です。
コピーライティングってのはね紙媒体のセールスマンのことでね、成約率の高いレターを一本書くだけで放ったらかしでお金がザクザク稼げるんだよね。・・・みたいな文章。
これをもう少し掘るとどうなるか。
コピーライティングってのはね、僕も勉強中なんでね。取り敢えず他人のセールスレターをパクりながら書いているけど、幾つものレターを真似して繋げただけだから全然ロジカルでないんでね。うん、大変でね。・・・となる。
多分、どっちのパターンでもモノは売れるんです。だけどトータルの売上でいけばやっぱり偉そうな物言いの方が上かな。
僕の場合は売上を気にしなくてもよくなったので、ひたすら下に掘り続けてマントルが見えるくらいまでスコップを垂直に向けているつもりです。でもね、土が硬い。その硬さは僕の保守性であり、虚栄心でもあるんです。結局、もう少しのところでいつも地表に戻ってくる。
本当はもっと掘って恥ずかしい部分を出したいんだげど、それができない。自分と向き合う時間が足りてない。それ故に中途半端なところでいつも臆病風が吹き、土を硬くする。
フィットネスジムで女性が恥骨あたりの筋肉を鍛える様子をよく目にするのだけど、彼らは締まりをよくしようとしているのでしょうか。
僕は反対です。恥骨どころかこの凝り固まったハートから内臓の隅々まで柔らかくして、空気のような存在にしたいと思うのです。(女性のクダリは完璧に下ネタですね、ごめんなさい)
量を出さないと自分は掘れないものです。居酒屋で本音は出ないし、お酒がそれを助長するでもない。静かな時間を用意して、インターネットに繋がらずカフェインも回さず、気持ちのいい風だけで文章を書く。しかも毎日決まった時間に決まった場所で。このくらいしないと自分と対峙することなんて不可能の思うわけです。
今日は甚く内省的な文章になってしまいました。この文章もカチカチの土を数センチ掘った程度のこの世に存在する価値のない文章なんですけどね。
僕はもっと自分の深い部分にアクセスしなきゃいけない。そして、あなたもそう。たぶん。
石崎力也拝