4ヶ月前、友人の結婚式に参加した。お嫁さんのお腹の中には既に子どもがいると聞いてビックリ。「え?中で出したん?中で?」と目をむき出しにして聞いている友人Hを傍目に、ああもうそういう齢なんだ・・・
・・・と思うわけないじゃないですか。抜け毛と尿漏れに悩み、目覚ましなしで午前11時よりも前にどうやって起きるかを必死で考えている人の脳に、”子育て”という新しいカテゴリが入るスペースなんかあるわけない。自分のご飯を作れなくて餓死するかもしれない日が続く今日、子どもに飯を食わすといった大それたことはできません。(ハンバーガーより早く食べれて美味しいもの教えて下さい)
最近Facebookを見ていると中学校の同じクラスだった子や、高校時代の麻雀仲間がみんなパパママになっている。「え?中で出したん?中で?」なんて恥ずかしいことはさすがに聞かないけど、どうやって自分の人生と子どもの人生をマネジメントしているのか面と向かって聞いてみたい。『仕事は人を作る』とは僕の師匠の言葉だけど、おそらく『子どもは親を作る』も同様に成り立つのではないか?そんな興味本位真っ最中、この本に出会った。
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母親は社会から期待される「役割」を演じなければならない
そこはすごく重要なところで、いま「演技」という言葉が出ましたが、これはたしかにひとつのキーワードだと思います。人生というのは劇場みたいなところがありますから。幼稚園に行ったら幼稚園の、保育園に行ったら保育園でのお母さんの役割があるし、あるいはPTA役員として役割があるし、また国会議員をやっているんだったら国会議員としての役割がある。役割によってみんな違う役を演じている。
(中略)
東京大学の教授をされていた哲学者の廣松渉さんは、この役割をさらに「役柄」にわけていきました。役割というのは比較的、可変的なものがある。ところが、同じ役割が続いていると、今度は「役柄」ということになって動かなくなるというのです。「お母さん」の場合は、その役柄として、社会から期待されているものが決まっているので、その枠の中で役割を果たさないといけない。それはじつはかなり大変なことです。
役割がある程度可変的だけど役割が続くと役柄になり役柄は動かなくなる、かぁ。母親になったことはないけど(なれないけど)、なんとなくこの感覚は分かるなあ。特に将来を決めかねている大学を卒業したばかりの新社会人とかに分類される人は、一旦自分が決断するとそれが後で簡単には覆せない「役柄」的束縛をひしひしと感じているのでは?僕は感じた。(そして役柄を持つのはまだ嫌だ!と決断し、たくさん役割を持つことにした。いつでも変更可能だからね)
じゃあお母さんになるとか、もしかしたら会社に入るってことすらも一つの役柄を担う決断の表れかもしれないね。すごいや!「別にこの会社潰れても生きていけるし」とか中途半端なことを言っている僕の友人(ニアヒルズ族”六本木に近い場所に住んでいる人たち”)とは大違いだわ。パパママリスペクト!