養老孟司さんが言っていました。バカの壁が出る前のVTRかなんかでそんなこと言ってたんです。どんなこと?
「見て変わるんだったら、変わった方が正しいんじゃないんですか」って。
現代人は現実から目を背けているんじゃないですか。特に「死とか」って。そのVTRでは、直後に養老さんが胎児の標本を触っていました。これ見れば、生き方変わるでしょって感じで。そっちの生き方のほうが正しいんじゃないのって。
確かに僕もその標本を見て、特にその胎児がちょっとだけ成長したバージョンの息子を持つ父親として、感じることがありました。心の中のどこかで何かが変わったんだと思います。でも変わったものって何だろう。しかもその変わった方が正しいんだってさ。
月並みな表現では「命を大切にしようと考えが変わった」となるんでしょうか。もちろん命を大切にするなんてのは当たり前のことかもしれないけど、それを意識にあげて「よっしゃ、大事にすっぞ」と思えることは、ただ単に当たり前と思うことと違うことなのかもしれません。
僕がかつて住んでいた港区に麻布警察署があります。署の前には「今日の交通事故:死亡2名」とか書かれている。人間の死が数字に置き換わる。それで一体何がしたいのだろう。何を伝えたいのだろう。それなら事故現場の写真2枚の方がよっぽど意味があると養老さんは言うでしょう(実際にそう言っていました)。その写真は現実です。でも現実の写真はグロテスクだから、数字に置き換えてしまう。もし麻布警察署の前に「今日はこんな感じで人が二人死にました」と写真が掲載されていれば、ポケモンが現れてもいちいちスマフォを確認することはないでしょうし、運転速度も若干落ちるかもしれません。
なるほど、見て変わった。そして変わった方が正しかった。運転中にポケモンGoをしないことと、ゆっくり運転することは正しいことなんじゃないかな。きっとそういうことですよね。
だから見る。だから僕は少しだけスマフォやパソコンから顔を上げて現実を見るようにしました。ただ現代っ子の僕には何が現実で何が現実でないかの境界線が結構あいまいで、これが現実じゃないかと目視したものが案外虚像だったりするから困ります。まあさすがにスマフォの中に現れたポケモンを現実と思うことはありませんが。
ということで今は実地調査中です。家族と地球を踏みしめながら、まずは確かに現実っぽいものから順番に抑えていっている感じ。目の前に現れる夕日や海。あれは確かに現実っぽくないですか。ああ、なるほど、ラットを当てていない夕日の色ってこれね。そういえばVimeoで見た美しい夕日には湿度がないけど、この夕日には湿度がある。クロップされていない画角の外側には、結構ゴミとかが落ちています。
もしかして、ゴミのない世界とかばっかり見ているんじゃないですか。オフィスワークで忙しくて、蛍光灯と上司の顔しか見えていない。マジで?そんな人いるの?
え、そもそも最近、夕日とか海見てないって?それはもったいないですぜ。見るとなんか変わりますよ。そして変わった方がきっと正しいですよ。
そんな風にかつての自分が構築してきた固定観念を、ちょうどシールをめくるように、一個一個取り剥がしています。そしてちょっとずつ何かが変わっているはず。オフィスでガリガリと働いていた当時の自分と比べて、結構いろいろと変わっているんじゃないかな。たぶんね。
そして、変わった方が正しいと信じつつ。
花鳥風月を見ています。
朝日と夕日を見ています。
海と波と風を見ています。
1歳児の成長を見ています。
奥さんの小さな仕草も(たぶん)見ています。
自分が何が好きで何が嫌いかを見ています。
小さな心の動きを見ています。
街を見ています。
沖縄を見ています。
もちろんお金も見ているし、仕事も見ているし、人間関係も見ている。でも人生それだけじゃない。たぶんいろいろなところに目配せをすると、プライオリティってガラッと変わるんじゃないかな。少なくとも僕はガラリと変わりました。
花鳥風月と家族を見て、特に。
石崎
ps:ポケモンGoはやりません、運転免許も残念ながら持っていません