Globisのセミナーで著作を900冊も持つNさんが喋っているのを聞いた。リーダーとは何か?マネージャーとは何か?たしかそういった話だと思う。その中で決断力や判断力の違いについて語られていた。
正直どっちでもいいって僕は思った。Nさんは大前研一氏のアッタッカーズスクールの講師でもあり、何度が彼の講義を聴いたことがあったので、僕はNさんが嫌いじゃない。ただ、その時に言っていた内容が僕にはどうでもいいと思われただけだ。
決断力や判断力という言葉の響きにはどこか僕たちに何かを決める能力があるのだと錯覚させてしまう。本当は僕たちには何かを選択したり、もちろん決断、判断したりする能力はないのに。
今回お届けするノウハウはこちら
止められるけど始められない
正確に言うと「辞める」「止める」という選択はできる。でも「何かを選び、それをやる」という「始める」の選択の力は僕らにはない。
たとえば、なぜ僕がこのブログを書き始めたか?理由は定かではない。自分が選択したかどうかも曖昧だ。だけど、今、持ち得たる決断力を振り絞って、このブログを書くのを辞めるという選択はできる。
モーセの十戒なんかを見るとそこら辺がよく分かる。そういった道徳律はいつも「〜をしてはいけない」という形になっている。おそらく、昔の人は直感的に分かっていたんだ。「人は始めの選択はできないけど終わりの選択はできる」と。
今この文章を赤坂のホテルでコーヒーを飲みながら書いているんだけど、斜め前にむっちゃ可愛い女性が座っている。一言で「タイプだ」。二言で「タイプだ、タイプだ」。むっちゃ美人なのに巨人で、キーボードにいつ血しぶきが上がるかわからない。
ストーカーになりたい
もしここで僕が、彼女が席を立ったタイミングで彼女の後を追ってしまうとしよう。僕は何を思うか。「たぶん、追跡を続けたら彼女は迷惑がるだろうな」と考えると思う。そう。途中で追跡を止めるという決断はできる。
でも「彼女の後を追う」というスタートの行為は勝手に起こってしまった行為だ。始まってしまったものは仕方が無い。咎められるのは、それを継続して止めなかった点だ。もし継続したらそれはストーカー行為となって犯罪になる。
これだけ脳科学がブームになっているから、既にご存知だと思うけど、脳系の書籍を読むと「人間には自由意志があるかないか」はいつも問題になっているね。なぜこれが問題になるか?
既に体が彼女を尾行し始めている
それは簡単だ。僕たちが意識する前に先に体が動いているのだもの。そりゃ、自分に自由意志があるかどうか問題になりますわな。たとえば先の例で言うと「ストーカーをしよう!」と決断する前に、既に体が彼女を追っているんだ。
脳が意識する前に、先に体が動いてしまっている。こちらも脳科学で有名な池谷さんのお話だけど、人が知覚するのは「体の動きを見て初めて知覚できる」ということなんだ。
泣いている自分がいる。それを脳が感じ取って「あ、悲しいんだな」って。悲しいから泣くんじゃなくて、泣くから悲しいってのはよく聞く話だけど、その通りなんだね(これを教えてくれたのは高校2年生の時、全く尊敬していなかった国語の先生からだ。いや、全ての大人を尊敬していなかったな、あの頃。なんかバトルロワイヤルみたいだねw)
初めて聞いたときはよく分からなかったけど、今なら理解できる。僕も大人になった。経験は知識を強化してくれる。今は自身を持って言える。僕たちには選択する自由はない、ということを。(#006に続く)
文責:石崎力也