Facebookと学校って似ていると思いませんか?
両方とも、欠点を増長するように機能している。
僕はそう考えています。
自分の学生時代を引き合いに出してブログを書くのはなんとなく野暮ったいのでやりません。僕自身、運良く普通だったのそれほど欠点が増長することもなかった気がします。あれ、そもそも普通って欠点と同義なのかな。世の中の普通の人ってそれが欠点だと思っているんですか?僕にはわかりません。
H君が学校を欠席した日のこと。算数の時間でした。先生がH君の机に行き、机の中をガサゴソとあさります。中からたくさんの教科書とノートが出てきました。H君がいない場所でいかにH君がカスかってことを語り始める女の先生。
「勉強好きな子は、普通、教科書を家に持って帰るものです」
なんで、勉強好きな子をデフォルトに考えているの。まあ、いいや。そのあと、ノートを1ページずつ開いて、教室中に見せていました。H君、勉強が嫌いなようで、1ページにひらがなを大きく1つだけ書いていました。さ・ん・け・た・の・か・け・ざ・ん、みたいな感じに。H君がいてもやっちゃいけないことだと思うけど、H君がいないところで勝手にノートを取り出してそれを40人のクラスメイトに見せる行為は最悪。実際にH君が登校したある日、お前のノートを見せろや、嫌だよ、のごたつきがあったもん。
彼、もともと登校拒否気味だったんだけど、あまりにも先生のアプローチがショボかったから、いよいよ学校に来なくなった。あれから幾分かの月日が経ってH君Facebookの友達申請があり、自殺をほのめかす発言をウォールに投げていたので、僕はすぐにFacebookをやめました。Facebookは晴れの舞台なので、みんな良いことしか書かない。情報リテラシーの低い人はあたかもそれが”本当の”日常であると信じ込み、自分を省みて気分を害する。ああ俺の人生は普通だとか、結婚してなくて子供もいない私はダメだとか。
特別な能力がなかったり取り柄もない人が学校に行くとしんどくなる。あるいはFacebookをやるとしんどくなる。自分もあんな風にならなきゃいけないと思っちゃう。頑張って「あんな風」になったとしても、それは平均値のど真ん中にいる普通の人なんだけど、それに気づけない。努力して普通になろうとする。もしかしたら尖ったスキルが磨かれたかもしれないのに、その時間を社会や理科の点数が普通になるために使っちゃう。悲しいですね。
僕みたいな欠点だらけの人間は、Facebookなんかやると本当にしんどくなる。周りを見てて「ああ、あんなこともしなきゃならないのか」「こんなこともしておいた方がいいのかも」と思う時がしょっちゅうある。だからやらない。自分の無能さを助長するような場所には飛び込まない。尖ったスキルがあるのかはわからないけど、少なくともFacebookなんかをやっていたら尖ったスキルが磨かれないことだけはわかる。
ということで、現時点で特別な能力もなく、これといった取り柄のない人はFacebookをやめましょう。しんどくなるだけです。