なぜ人は『選択と集中』ができないのだろうか。いや人はどうだっていい。なぜ僕は選択と集中を自ら放棄してしもうたのか(一度完璧に習得したにも関わらず)。
留学中にLINAX開発者の”Just For Fun”という本に啓発され「これからは”それが僕には楽しかったから!”だけで十分だぜ」なんて嘯いていたけど、いざ組織を走らせるとなるともう一度『選択と集中』が恋しくなったてきた。
これまでのように人の人生を背負わず自分勝手に生きている分にはJust For Fun精神だけでもよかったはず。
(今、目の前にニーチェみたいな日本人歩いて行った・・・カメラ向けたら失礼な気がする。)
だけど今は4人の人を巻き込んでしまった組織として動いているんだわ。Just For Funだけでは少し心細くないでしょうか、僕はひどく心細いです。「みんな心に従ってくれれば、あとは絶対にうまくいくからさ、ね?ね?」なんて言ってたらせっかく借りたこのオフィスも隣に住むロシア人夫婦に渡すこととなるでしょう(子ども増えて大変だ。毎晩あんなに盛んだもの)。
3年前、オレンジ色のキャリーケースにぶらさがっていたAmand Dariの名刺ケースを留学先の友人Teddyに渡した。「このケースむっちゃ高いんだよ。もっと高いのはこの中に書いてある言葉。英語でいうとSelection and Concentrationかな?」といって。ミリタリーサービスを終え、留学も終え、韓国のスペシャル就職氷河期に突入してゆくTeddyにあげられる最大のアドヴァイスがそれだったから。
Teddyは聞きました。どうして選択と集中を捨てるの、と。僕は答えました。選択と集中を捨てれば次のステージに行けるような気がするんだ。個人的には”Just For Fun”が鍵だと思っている、なんて。
確かに個人のステージは上に行ったのかもしれません。だけど創業間もなく気づいたのです。「あぁ、組織が回っていない段階で”Just For Fun”をしてもダメなのか」と。そういえば、最近開いた会社改革の本にこう書いてありました。しかも最初の最初に。「経営の基本の基本は”選択と集中”です。」
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くそ、もう一回捨てた選択と集中に戻るのか。じゃあ僕がかつてやったことと同じことをやりましょう。捨てることは勇気です、という耳心地いい言葉に騙されて半年。ようやく気づいた選択と集中の適用方法。それは魔術的なまでの自己洗脳でした。それは何か分かりますか?はい、普段持ち歩くものにカードをぶら下げるのです。その恥ずかしさと戦うのです。その恥ずかしさが最大のリマインドになるのです。(内省的な文章はいつもデスマス調になるわ、どうしよ)
もう一回ぶらさげるぜ『選択と集中カード』を。街で『選択と集中』というカードをぶらさげている24歳くらいの男性をみつけたら声をかけて下さい。「あのー、石崎さんですよね?ブログ見ました!」そしたら僕はこう答えるでしょう。「はい、僕はピーター・ファーディナント・ドラッカーです」
もう一回やるべ。成果は常に一つ。